MUI

思い描くユーザーインターフェイス

アートとデザイン

かれこれ2007年にデザイン学科の道に進んで以来、私にとっては頻繁に登場するテーマです。 デザイン VS アート デザインは生産的で、アートは道楽。そうです。なので役立たずなアーティストはいりません。 デザインは問題解決で、アートは感性の表現。そうです。なので標識や広告はこの世の問題をすべてなくしているし、アートが街中やインターネット上で誰かを手助けすることもありません。 デザインはクライアントがいて、アートは食っていけなくてもそれで生きること。そうです。なので世の中に貧乏なデザイナーはいないし、いつも高値で作品が売れる作家もいません。 つい意地悪な言い方をしてしまいました。金、労働、社会貢献度…これらでデザインとアートの関係を計るのは限界があるでしょう。   アートとデザイン 自分があまりに未熟で自信がないため、誰かの文章を引用したり根拠を見繕ったりせずに直球に書きます。仮説や経過報告くらいのつもりです。 アートは人の文化活動すべてに息づいているものだと思います。 人のする創造を文化活動、創造の形と力をアート性と呼ぶことにしましょう。アート性は社会に生産的に働きかけます。建築物、衣類、食べもの、本、暮らしや仕事に使う道具やソフトウェア、webサービス、路上のオブジェなど、あらゆる文化活動でアート性が生きています。 人の創造は社会に影響を与えます。これを人が計画して成すことをデザインと呼べるのではないかと考えています。 芸術作品は創造においてアート性そのものが暴かれたもの、というように感じています。私がよく思い浮かべるのはコンスタンティン・ブランクーシの『空間の鳥』です。 ひいてUXやゲームのグラフィカルは、デザインされたアートとでもいうのでしょうか。   おわりに 私の持論がなかなか弱くて締まらないので、芸術工科大学でお世話になりました松村 泰三教授の

文章を理解すること

専門書やブログ記事などの文章を読んで理解することについて書きます。 そもそもは「専門家に向けて書く文章はわかりやすくやさしい方がいいか」について考えていたのですが、そのうちに文章を理解すること自体について考えるようになりました。 何故かなりゆきで、現代文の点数を上げる方法も書いています。 理解、共感、感動の段階構造 まず文章を読んだときに、私たちがどのように段階を踏んで意味を受け取っているかを考えました。 「理解はできるが共感できない」という台詞があってもこの逆は聞いたことがありません。ベースに理解があり、その上に共感や感動が成り立つものだと考えます。 理解は「リテラシー」と呼ばれるように認識に関わり、人間が訓練で発達させられる社会的な能力です。共感は個人の内面で起こる感情的な反応で、社会生活を送る上で必要になり、生活のなかで豊かにできるものだと思います。感動は共感と同じく内面で起こりますが、より感性に作用する現象であり、本人が努力して感動するなどコントロールすることはできないでしょう。 つまり理解は技能の一つで、個人の感性に左右されないのです。 では次に理解に正解はあるのかということですが、そういえば遠い昔の学生時代にやった現代文の試験には正解がありました。 現代文でいう正解 現代文のテストは出題、問、答えで構成されています。問の答えは出題の中に存在するので、問に対応する部分を出題から的確に抜き出して答えます。必然的に、答えには出題で使われている言葉が用いられます。答えにはこの単語が入っていれば正解、という具合です。もしかして登場人物の心情を推測して回答していませんでしたか。 このことから、専門書やブログ記事の内容の完成度には関係なく、文章への理解は可能なはずです。 専門書はわかりやすくなくていい 以上のことから、理解は感性とは異なったアビリティであるので、当然、専門家が

UIデザイナーの使命

この記事をもう二ヶ月ほど書いていて、その前からずっと感じていたことがあります。デザイナーの役割は、問題解決をしKPIにコミットすること。そうなのでしょうか? 特に自分がユーザーインターフェイスのデザインに携わるようになってから、よく感じるようになったのです。 インターフェイスが操るもの 『パーソン・オブ・インタレスト』 シーズン3 第12話『真理』で、登場人物のルートはこのように言います。 「私よ 私がインターフェイスなの」 あらすじはこうです。 犯罪の可能性を予知するスーパーコンピューター“マシン”をアメリカ政府が悪用しようと、マシンからの信号を受信しているルートを拷問する。 彼女はマシンに陶酔しているので正義からの動機ではないのですが、結果としてマシンが魔の手に堕ちることを防いだことになります。この物語では、マシンと交信する主人公たちは、世界中の人の運命を操っているといえます。しかし、もしもインターフェイスが魔の手に堕ちたら、一体どうなるのでしょう? インターフェイスを操る者 プロダクトのインターフェイスを使う者をユーザーとして、インターフェイスを作り、操る者のことをUIデザイナーということにします。そしてさらにインターフェイスを操る者を操る者がいます。 インターフェイスを操る者を操る者 それはUIデザイナーの雇い主や、意思決定者、ユーザー、仕事仲間や『デザイナーの役割は、問題解決をしKPIにコミットすること。』というようなもっともらしいスローガン。私がずっと感じていたのは「UIデザイナーは操られている」ということです。自分で考えてというより、誰かに言われるがままプロダクトを作っている感覚です。魔の手に堕ちたらどうなるか。実際にはもう堕ちつつあるのかもしれません。 使命 UIデザイナーは何に従えばよいのでしょう。UIデザイナーの使命は何でしょう。 二ヶ月考えてひとつだけ

プロフィール

yumemi

UIデザイン、サービスデザインをしたり、iOSアプリを個人開発したりしています。